人間って本当は自分になりたいだけなんだ。だけど子供のときって、こういう大人になりなさいって。レールを用意される。
例えば、あなたは頭のいい高校生、大学生になりないさい。とか、大人になったら一流企業に入りなさい、とか…周りが求める大人像ってあったわけ。昔はそれが誇らしく思えた時代があって、それが普通であっただけ。
戦後、日本は帝国主義から民主主義になった。民主主義っていうのは、法をおかさなければ誰がどんな人になってもいいってこと、つまり変態になっても政治家を目指してもいいのだ。自分がなりたいものになっていい、人それぞれ自由です。ってのが本来の民主主義。
戦前は、帝国主義で家父長制というのがあったから、家族の中で長男として生を受けたら周囲からはそれなりに期待が集まったし、偉い長男にならなければならなかった。その時代はそれが普通だったしそれで良かったのだ。
問題なのは民主主義になってもその空気感が残っていると言うことだ。
多様性の今、長男として立派に!とか、長男として立派だ!とか言われてしまうとそれが同調圧力となっても息苦しさを感じてしまう。
家族制度の中、長男として機能しないのなら、しっかりしなさい!と、消しかけられて、罪悪感を感じてしまう。やがて息苦しさを感じ、生きるのが苦しくなる。
人間は生まれながらにして対等に価値がある。本当はどんな自分になってもいい。ホームレスとして死ぬ自由もある。誰に何をやれとかやるなとか指図られたり言われる筋合いなんてそもそもないわけだ。
己の人生は己が納得すれば良い。
自分が自分であろうとする時に、自分の人生の責任は自分でしかとれないんだ。と、思った瞬間、人は本来の道を行くことができる。
それまでは、こうあるべき。こうでなければならない。○○のようになりなさい。と言われる。もう、○○のようにならなくても良い。そういうプロセスを通る設定になっている。
今日、自分が望む自分をやろう。
それだけでいい。アイデンティティを人に理解されるわかりやすいキャラクターになる必要すらない。今を生きろ。今を楽しめ。それで苦しくなっても本望じゃない?
ホラみたことかって、人から言われたって自分が好きなようにした人生なのだからそれで良いわけさ。
僕のなりたいものはなんでもないもの