最近、大我という言葉を知りました。
大我とは、個人のとらわれた見地を離れた自由自在の境地である。
見返りを求めず与える利他の精神。
逆に小我という言葉があります。
小我とは、個人的な狭い範囲に閉じこもった自我のこと。
自分の事を中心とした利己の精神。
執着を手放すと人は大我に向かい自由になるといいます。
体我とは、生まれたての赤ちゃんのようにあるがまま、我のままでいること。
小我へ向かうとき、人は社会の流れの中で自我を形成していきます。
そして、社会の流れの中で色んな経験を自ら選択していきます。
学校へ行くことも、会社へ行くことも、親や先生の言う事を聞くことも、
すべての事柄は自分で選んでいます、今世で何かを成し遂げるために、
必要な経験をするため、私たちは親や子を自ら選んで産まれてきたのだというのです。
自らの世界を創造し、破壊していきます。すべて経験するためです。
やりたくないことも、くるしいことも、経験するために起きている現象。
お金を稼ぐことも、お金を稼ぐためには労働して苦労しなくてはならないことも。
失敗も、成功も、すべて、自分で選んだことだというのです。
それらを手放していくと、人は大我に戻れるのです。
私たち人類には、こうしなければいけない。こうでなくてはならない。という制約条件が課せられています。
これは避けられないシステムであり、そうプログラムされてきているようです。
私たちの魂は、ひとつの海のような大きな塊でした。
海のような塊から一滴の魂が個性を持ち、今世を体験します。
大我であった魂は、小我を経験し、やがて魂のしずくとなり、大きな塊へと帰ります。
創造と破壊を繰り返し、魂の塊は形を変えていきます。
まるで誰かが意図的に、僕らを試しているかのようです。
何に試されているのかはいずれ知るときがくるのでしょう。