社会は普通かそれ以上になれという。心に闇を抱えた者にとって怖いのは世間の目。
世間の目は「普通」から外れた者にとっていまだに冷たい。
多様性が認められ、寛容な社会ではあるけど、限られた職種の中で何かを頑張れない奴はダメというレッテルを貼られてしまう。
今日、実家に妹が来て、受験を控えた長男の自己肯定感が低いことを悩んでいた。
「どうせ僕はダメだから、、」それが甥っ子の最近の口癖のようだ。
一緒にゲームしていても、ボーリングをした時も、「どうせ僕は下手だから」と
すぐにあきらめて別のスマホゲームを始めてしまう。僕の幼少期もそうだった。
子供が何かやろうとすると、大人は「これはやめたほうがいい」と口をだす。
子供が夢を語ろうとすると「それは将来のためにならないからやめとけ」と子供をしらけさせる。大人にしけた顔をされると、「もういいや」ってなるよね。
妹は、「子供がそうなったのはあなたの責任ではないか?」言われ傷ついていた。
全部親のせいではないけど、子供が卑屈な性格になるのは制限を教育されるこの社会構造に原因があるのではと思う。
「あなたはこうだからしっかりしなさい!こうしろって言ったじゃない!だからだめなのあなたは!」それは注意のつもりでも。
子供からやる気を奪う凶器でしかない。
親の親も、その親の子供が親になっても、普通になるようにと、制限を教育されてきたのだから、仕方ない。
社会のレール、普通から外れないよう親は我が子の将来を考えて一生懸命になる。
子育てをしながら仕事するってすごく難しいと思うし大変だと思う。
協力者がいなければ壮絶だろう。
普通とは…
義務教育を受け、安定した企業に就職し、良き納税者としてお金を稼ぎ、良き結婚をして、子供を持ち、家庭を築くこと。
だろう。
その普通がいまは難しいのだと言う。持つものと持たざるものとに分けられ、社会に貢献できぬ者はふるいにかけられる。
良識ある者に富は集まり、無知な者は社会不適合者の対象にされる。社会保障制度という一時的な逃げ道は用意されるも、いつまでもラッドレースから逃れられなくなる。
そしてコントロールされ、制限された中流層と言われる普通の人はいつ自分が生産性のピラミッドから落とされるか不安になる。
そんなことでは情けない、親や大人は変えられないし、変えようとせず、自分ごとに集中できる環境と武器が必要だ。
武器とは「やりがい」を感じられること。僕は今の状況を受け入れ、やりがいを感じていることを続けて行こうと思う。