昭和という時代は、決して平等で公平な社会ではなかった。
表向きは平和に見えたが、歴々と存在した格差社会のなかで逃げ場などなかった。
戦わなければ下流へと埋没して行くだけの低次元な世界であった。
僕らは先人たちから競争意識を植えつけられ、競争社会の中で格差に苦しんだ。
そして、生産力にならなければ社会から排除されるという恐怖心に支配された。
競争の中で社会的地位を得たものには多くの報酬が与えた。
しかし、貴重な時間と選択の自由は奪われ、マネーゲームの奴隷と化して行った。
しかし、競争にも良い面はある。競争は人格を磨き、自信を育てる。
例えばスポーツという競技なら、負けることから健全な学びを得ることができる。
負けの経験があることで勝つことへの希望が持てるし、勝った時の喜びを体験できる。
しかし、スポーツという競技であっても、競争に執着するぎると悪い影響にもなる。
競争とは相手ありきのものだから、一歩間違えば大きな争いに発展してしまう。
これは余談だが、
昭和の親世代はスポーツ根性が染み付いているから学び事をやらせる際は注意が必要だ。
子どもに技術を教えるのではなく、忍耐や根性を植えつける指導者が沢山いる。
だからスポーツという競技も感情的に教えてしまうと暴力性を育ててしまう。
競技を利用して自らの暴力性を解放しようとする選手もいるのだ。
実際に競争を利用して意図的に戦争を仕掛ける手法がこの世には存在している。
競争は勝敗を生み、勝敗は感情を形成させる。感情は操作しやすくされやすい。
仕掛ける者たちは大衆心理操作ツール(テレビ)を使い大衆の感情をコントロールできる。
憎しみをつくりだせば、分断が生まれ、人々の思想に違いを生ませる事ができる。
思想に違い生まれれば、そこからその人に必要な商品が生まれる。
競争は戦争と紙一重であり、感情は利用されるとビジネスに繋がり、大きな利益となる。
そんなプロパガンダが実際に存在しているのだから、競争意識を持ちすぎるのは超絶危険。
よく考えてみてほしい、勝敗による効果なんて一瞬のものだ。
過去の勝利や栄光の快感に永遠にすがりつき、それを自慢気に話してくる人もいる。
それに、競争による価値はほんの一部の人間にしか味わうことができない。
競争は劣等感を抱かせ、自信を失わせる。大多数に良い影響は与えられない。
本来、競争からは感動が生まれなければならないが、今、競争は奪い合いになっている。
奪い合いの競争にはさらに大きな罠が仕掛けられている。
競争が人間としての価値を測るものになると、1流、2流、3流といったレッテルが貼られ、下流という負け犬根性が染みついてしまう。
負け犬根性がつくと、「俺なんか、私なんて」と自分を卑下したくなる。
誰かと比べるから、自分の可能性に蓋をして、自己肯定感の低くなって、
周りの目ばかり気にして、生きづらさを感じやすくなる。
「競争とは自分磨きのための遊び」競争に巻き込まれないように。
そして感情には気おつけて欲しい。勝ち負けに一喜一憂しないことだ。
勝ち負けで人間としての価値は測れない。私もあなたも常に価値のある人間なのだから。