最近、人の生死について深く考えさせられる事があります。古くから人が亡くなると近隣住民総出で故人を弔ってきました。
寺院に支援をおこなうため定期的にお坊さんにお金を払って死んだ人に戒名をつけてもらう檀家制度があります。
葬儀屋に高いお金を払って盛大な葬式を上げる方もいます。法事、墓参りは欠かさず行い、ご近所同士のつきあいも大事にしてきました。
しかし、時代が進み核家族化が進んだことで死の意味や新しい供養の形を皆が探し始めています。都心では屋内型の墓地があったり、水葬という形もあります。
子供の頃に一度、土葬という形で大好きだった親戚のおじいさんを見送った事もあります。あれは衝撃的でした…
最近は家族葬が多く、病気である事を隠し、周りに悟られる事なく静かに逝く方もいます。地元の電気屋のおじさんも、大工の棟梁もそんな感じでいつの間にか亡くなっていました。
死を受け入れる方法は人や国によってそれぞれ…だからお墓や教会、寺院があっても良いのだと思います。
しかし、死というのは時々、人間におかしな行動をさせます。人の生死に経済的な働きや義務が必要な仕組って何だろう…?
そこに違和感と憤りを感じてなりません。資本主義の世界ゆえそれも正しき事なのでしょう。お金をはらい愛する人を埋葬して盛大な葬式で見送ってあげる事も大切であり。亡くなった人を偲び、残された人のために祈る事も必要。故人を偲び、今を生きていられる事に感謝を忘れずにいたいです。